コラム

Monologues of CYBORG 016

1.文化の成熟

 私が小学生の頃(1970年代)、正月明けに自分で火をつけて「とんど焼」をした時、書初めの灰が高く舞い上がるほど字がうまくなるぞ、と父に言われたことを今でも覚えている。また、夏休みの夜に近所の公園で、家族や親戚と一緒に大量の手持ち花火やねずみ花火などに次々と火をつけて楽しんだことも時々思い出す。お盆の夕方には、庭で静かに迎え火と送り火をしたこともある。また、理科の実験では、アルコールランプやガスバーナーには抵抗なく火をつけていた。子供であっても生活の様々な場面で火は身近にあり、いずれのときも大人がそばにいたが、火をつけること自体は子供でも普通に行っていた。どれもマッチで火をつけていたのだが、最近はめっきりマッチを使える子供が減ってきた。
 マッチで火をつけるのは簡単に見えても多少のコツがいる。学校では、着火道具がより簡便に火をつけることができる「チャッカマン」に代わり、タバコの着火や燈明にも100円ライターが主流となって久しい。さらに近年、タバコまで電子タバコとなり、ついに最近は火を扱うこと自体が危険とされ、レストランのテーブルキャンドルも仏壇の燈明もLEDとなっていることが多い。ガスコンロもIHになり、オール電化生活の人も増えて、生活の中で火を扱ったり見たりすることがとても珍しくなってしまった。子供の頃、お墓参りで風の吹く屋外で実際に線香に火をつけようとしてその難しさを知ったし、線香の火が半ズボンをはいていた自分の太腿に接触してやけどしたときの痛みも鮮明に覚えている。また、夜どうしても庭の流し台の中にいる今日の自分の釣果を見に行きたくなり、母の指導の下、ロウソクをセルロイドの石鹸ケースに立て、火を灯して見に行こうとした際、その火がケースに引火して燃え上がったときの恐怖は今もリアルに蘇る。火はとても危険だが、使わなければその危険さも実感として身につかない。命にかかわらない多少の痛みや怪我は、子供の時に早めに経験した方がその後の人生にとってはいいこともあると私は思う。

 安西洋之氏(ビジネスプランナー、モバイルクルーズ代表取締役)によると、欧米や韓国ではロウソクは毎年10%以上の売上増のある成長産業であるのに対して、日本はロウソク市場が伸び悩んでおり、米国の代表的なキャンドルメーカーであるヤンキーキャンドルの日本(人口は韓国の倍以上)での売上は韓国の半分だという(2017年時点)1。現代のロウソクには明かりの機能よりもアロマや火による癒し効果を期待する人が多い。日本では、この「目と心に優しい明かり」よりも「火に対する管理負担」を重視する向きが多いのであろう。なかなか「火は危ない」から「火を危なくないように扱う」感覚にセットし直すことができなくなっている気がする1)2)。欧米が石の文化であるのに対して日本は紙や木の文化だから火を恐れる習慣が強いという人がいるが、果たしてそうだろうか。日本も電気が普及するまでは行燈の火が必要であったし、夜道には提灯が使用されていた時代もあった。江戸に火事が多かったことは確かだが、だからといって庶民が火を扱うことを禁止されることもなかったし、現代のように火を扱うのが稀になることはなかっただろう。今なぜか日本には最初から 「危険なものには蓋をする」考え方が浸透している。なぜ危険なのか、どうしたらその危険性を低くすることができるのか、を議論することすらしない。危険だが使いようによってはとても便利で役立つものであっても、その危険性のみを強調して頭ごなしに使わないようにするやり方に、社会全体が黙してただ従っていることがあまりに多いのではないだろうか。
 夜の長い北欧では、夜の暗さを楽しむ文化がある。日本のように部屋全体を照らす天井からの照明ではなく、それぞれ必要な場所に必要な灯りを必要な時間だけ燈して使っている家庭が多いという。本を読むときには手元だけを照らす照明、食事のときにはテーブルだけを照らすキャンドル、そして寝室にはお気に入りの香りのアロマキャンドルなど。日本のフィトテラピーの第一人者森田敦子氏のセミナーを受講した際に、メラトニンの分泌が阻害されないように、彼女は夕方になると電気をつけるのではなく、マッチで家じゅうのキャンドルに火をつけて回ると言われていたが、実はこれは欧州ではごく自然な一般的な行為なのかもしれない。

 「危険なものには蓋をする」という考え方はリスク管理という意味においては、とても効果的であろう。確実に危険を避けることができるから。しかし、人生においては、ある意味では危険なものでもルールに従って使用することで生活が豊かになり、心が癒され、楽しみを享受できることが多々ある。果たして文化というものは、危険なものに一律蓋をすることを続けることによって正常に成熟していくだろうか。文化とは、間違っていること、正しいこと、危険なこと、それらをきちんと区別して正しく扱うルールを皆が理解し、社会全体がそれを受け入れる寛容さをもつことを前提にして初めて熟成され、そして成熟していくものであると私は思う。そのためには社会全体で子供にも早い時期からそれらを教えて身に着けさせていくことが肝要であろう。我々は時間に追われていることが多く、どうしても便利で簡単で早くできるものが重宝だと感じ、ついついそればかり採用することが多いが、実は同時に多くのものを失っていることに気付いていない。我々はまだしも子供たちは最初から貴重な楽しみを経験するチャンスを奪われているのである。やはりこのへんで振り返ってみる時かもしれない。自分の行為を一つ一つ吟味しながら、不便だけれども自分の人間としての能力を維持するために必要なことや、時間がかかるけれども心が落ち着くものを、もう少し大切にしていくことを心がけようと思う。それがいずれ成熟した文化を担う次世代を育てることにつながるのだから。


参考文献:

  1. 安西洋之:日本のロウソク市場が伸び悩むわけ 「文化的な弱さ」を灯し出す? – SankeiBiz(サンケイビズ) 2017.8.20 06:00
  2. 安西洋之:ロウソクが実は成長産業であるという意味 | 企業経営・会計・制度 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net) 2017.7.05 08:00